水仙

花にも流行や、客の好みの変化があるのだろうか?
最近は、切り花こそ見掛けないが、鉢植えでは、一重の水仙も花屋の店先にならぶようになった。
今日の漉き返しの反故には、二千年一月の日付が入っていた。
『水仙

巴里郊外の友人宅に招待された。硝子張りの温室風の客間に通され、思わすたちどまった。卓上に三株の水仙、花弁は一重で副花冠は八重だ。
子供の頃、数年続けて冬休みを、南伊豆で過ごした。特に、下田には定宿があり、毎朝、父母と通った市内の珈琲館の大正時代風の装飾や、煙草の煙に混じった珈琲の香まで、覚えている。
ある年、爪木崎の水仙の群生を見に行った。黒潮の流れる青い海に突き出た岬、明るい陽射しを浴びて、一面に咲き満ちる幾種類もの花々、風も芳香に染まっていたーーーような気がする。というのは、あまりに晴れやかで、美しい思い出なので、現実だったのが、不思議なくらいだから。当時両親は、すでに不仲になっていた。水仙の花畑は、私にとり子供時代最後の仮の幸福の幻となったわけだ。
反対に下田城でみた唐人お吉の人形展は、よくわからないながら、何か理不尽な暗く哀れなものを感じた。後に、自分が外国人と結ばれ、異国で暮らそうとは夢にもおもわなかった。
仏蘭西では、華やかな黄色の喇叭水仙のほうが、どうも人気があるらしく、水仙、特に花弁も副花冠も一重の私の一番好きな品種は、花屋でも余り見掛けない。
しかし、何年こちらに住んでも、何処か静かで寂しく、それでいて野に咲けば、あれほど朗らかで力強い水仙の花が、大好きだ。
紅茶を運んで来た友人は、何時までも水仙に見惚れている私を、面白そうに眺めている。』

潮騒も水仙の香に夢のうち


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風に揺れて

この冬は、信じられない程暖かな聖誕祭暮れ正月を過ぎ、立春を迎えて寒波となった。植物にとっては、とまどうことの多い辛い環境だったのではないだろうか。
身を縮める北風の日々が去り、春の訪れる気配を、柔らぎ始める陽射しや鳥の声に感じ、暗い土の中や梢の樹皮の下からおずおずと芽吹いて来るーーーというわけにはいかなかったように思う。
それでも、春が待たれる。
この気持ちは、巴里に住み始めた頃も今も変わらない。

もう一度漉き返しです。

『風に揺れて

巴里十五区セーヌ河沿いには、エッフェル塔も低く見える高層建築が並んでいる。全面硝子バリの外装、六角柱、星形などの直線的な構造が、無機質で冷たい印象をあたえている。
その近代的な建物同士を繋ぐ一角に植え込みや花壇がある。今は、灌木も冬枯れ、花一輪無い淋しさに、ただ通りすぎるだけだったが、先日、雀が五、六羽集まってさえずっていたので、つと近寄ってみた。パン屑を啄む小鳥達は、一度とびたってもすぐ戻って来て、忙しそう。と、思いのほか、かぐろく掘り返された地面に、まっすぐ、剣の潔さで伸びている芽———チューリップ。三センチ、二センチ、昨日やっと芽をだしたかにみえるものもある。
空は重たく、風は冷たい午後。背中を丸めて歩いていた私も、ふっと顔をあげたくなった。
それにしても、チューリップには、何故あの時期、幼児期を卒業し、思春期にはいる前の、年齢でいえば、八つ九つから十二歳ほどまでの特定の日々が、離れがたく結びついているのだろうか?小学校の花壇のためーーー否、より印象深いのは、我が家の庭に母が作っていた色とりどりのあの花。
重い朱色のランドセルを背負い、脇目もふらずに帰宅する子供だった。学校に行っている間は、何か自分が場違いなところにいるような気がして針鼠のよう。(後年、仏蘭西の田舎の道端に、車の犠牲となって倒れている針鼠を見て、その余りの小ささ、可憐さに驚いた。幼い私は、もっと閉鎖的だっただろうに)。かといって、親に甘える子でもなかった。家庭訪問の担当教師に、「家に居る時も、何を考えているのかわからない子です」と、母は真顔で答えたそうだ。
今、あの頃を振り返ってみると、実は、奇妙に楽しかった。猫と一緒に庭にでて、やっと一人になれた喜びを味わいつつ、図書室から借りて来た本を読み、空行く雲を眺め、風の声を聞いた。
チューリップの咲く四月は、多分私にとって一番辛い時期だったのだろう。組み替え、席かえ、新しい先生と、すべてが苦痛の元だった。日だまりに長い茎をゆらゆらさせて咲き誇るチューリップを前にすると、ほっと安心したらしい。そのためか、チューリップは、見下ろす花ではなく、いつもしゃがんで眼の先でみる花だった。
遠い記憶が今でも、残っているのか。もともとは、仄かに香る花弁の薄い花が好ましく、好きな花とはいえないのに、単純な形のあの花をみる度に、何か甘やかなものが、蘇ってくる。
A町の田舎の家にチューリップを沢山、沢山植えた。複雑な加工種ではなく、赤、白、黄色。そして、かつて母が、「黒いチューリップが、本当にあるのね」と、楽しそうに育てていた濃い紫。今頃は、霜で真っ白な花壇にも、こうして小さな芽が生えているのかもしれない。』

霜柱踏まずになりて幾とせぞ


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空の諧調

日本から連れて来た三毛猫メイ子の御陰で、猫が苦手だったM氏は、大の猫好きとなった。噛まない、ひっかかない。いつも機嫌良く、甘えたで、陽気だった。
二月は、メイ子の忌月。虹の橋での生活も多くの年月がたった。

今日も、漉き返しです。

『空の諧調

三毛猫メイ子が病気なので、ほぼ毎日ミラボー橋からグルネル橋まで、セーヌ河添いに獣医へとかよっている。往路は、エッフェル塔に向かって歩くこととなる。片道五分程。朝の事が多いが、仕事の都合で夕方になることもある。
昨日も、勤め先から戻って、すぐに連れて行ったのだから、五時頃だったろう
小さな老猫を動物用の鞄に入れ、いつものように出来るだけ早くと、足を急がせた。
ここしばらくの寒さが緩んで、雨でも降ってきそうな湿った空気。
コンクリートの鋪道だけを見つめて、河岸の大通りへと曲がり、息をつこうと顔をあげ、一瞬たちどまった。
奇妙な、本当に不思議なものを見た。
空の色———。
照明が点き、ビーズ細工めいたエッフェル塔の背後に、思いもかけぬ密度で広がる深く沈んだ鉄紺色の空。透明感というよりも、なにか重みを持った物体のような威圧感、それでいて、果てのない奥行きがかんじられる。
星一つないその空の天頂まで眼でおっていけば、褐色から青褐色へ。さらに、そのまま振り返って顧みすれば、地上僅かのところ、急に悲しい程澄んだ秘色の一体となりーーー、遥か彼方より射す、金とも朱ともつかぬ朗らかな光。
ただ、これだけのこと。
メイ子が、風邪をひかぬようにと、鞄ごと胸に抱え、再び歩き出した。
十四年八ヶ月前、私の眼前で生まれた。この軽く柔らかな生き物の一生が、あの夢のような背後の輝きから、天空を通り刻々暗みを増して、宵闇へと続く空の色と重なって思い出された。兄弟達と広い庭を駆け回っていた仔猫時代、京都に移ってから家の中に閉じ込められるのが、露台から脱出しては、心配させた日々。M氏の公邸で立食宴会の席を徘徊して、「大きな猫だなあ」と、招待客に驚かれた頃。渡仏後、周囲の人々から東洋の猫として、珍しがられ人気を博して、時が経った。
どうしようもない事なのだ。
どうしようもないーーー、それでも、否、それだからこそーーー/
纏まらぬ思いのままに、獣医の扉を押す。顔なじみの看護婦が、「メイ子」と、笑った。
再び、河岸にでれば、いつもの漆黒の空。ただ中空に、珍しく冴えた満月がぽっかり優しく浮かんでいた。

病む猫の寝息仄かな夜の空を何処へ渡る白き月影』


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如月の色

いつごろからだろう。花屋の店先に、色とりどりの椿の鉢植えが並ぶようになった。
以下は、留学して来た最初の冬の終わり、ちょうど今頃書いた反故。もう二十年以上も前の事。初めての外国暮らし。予想以上の寒さに高熱を出し、日本から連れて来た二匹の三毛猫を両脇に、 一週間程寝込んだりした。おそらく、その直後の記事だろう。
三毛猫達は、もちろん、その後一緒に暮らした猫達も虹の橋に旅立った。その最後は、一昨年天使猫となった亜子ちゃん。
今は孫猫真心子と、如月の空を眺めている。

『如月の色

この季節の巴里には色がない。人々は石造りの建物や、葉を落とした並木の梢に揺れる硬質の陽射しの内に、春の訪れを見つけようとしているらしい。
花が、ないからだ。
京都の早春を彩る椿や梅。
我が家の狭庭に咲き競う薄紅の乙女椿、茶室に一点明るさを添えていた白玉椿。幼い頃可愛がってくれた母の友人は、赤い侘助椿を好きだった。彼女の早すぎる死とともに、毎年見事に花をつけていた一株がかれたという、
その他、狭い路地の至る所で見掛けた、あの厚く輝く緑の葉と、その陰に覗くあでやかな花。この町では、ついぞみかけない。
とすると、夜会の度にマツグリット=ゴーチエの胸を飾っていたという椿は、どこからきたのだろう。写真によれば、往年のダニエル=ダリューを思わせる可憐な乙女。
ジェルモンが歌っていた南仏なら、今頃様々な花が咲き始めているのだろうか?この冬訪れたアルル近郊の赤茶色の土と寒晴れの空を背景につづいていた桃畑、杏畑を思い出す。
と、母から手紙が来た。写真同封。一瞬、息をのんだ。
玻璃のように輝く光の内に凛然と咲き静まる白梅。昨年は、二人で北野天満宮や小野に行った。 女二人で暮らしていたとはいえ、必ずしも気楽だったわけではないのに、 母との思い出は、いつも花見に出歩いていた事。何かにつかれたように、あくがれ出づる心のままにーーー。
巴里に来て三ヶ月程。新しい生活に慣れるのに精一杯で花を愛ずるゆとりもなかった。
もう少し暖かくなったらーーー。
弱々しい光の降る空を、猫達と見上げている。』

遠き日の猫と我あり紅の椿の蕾膨らむ日向


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A小母さんと歌舞伎

11月23日は、A小母さんの祥月命日。
「勤労感謝の日に亡くなるなんて、本当に Aさんらしい。」
国際電話の向こうで、母は呟いた。
働き詰めの一生だった。その小母さんの楽しみは、歌舞伎。
師走に入ると、京都は顔見世で賑わう。生きていたなら、きっと喜んで観に来た事だろう。
33回忌も、とっくに過ぎた小母さんの事を書いた反故が出て来た。二十年ほど前の記事なので、役者の名前は当時のままである。

『帰国する度に一度は、上京して歌舞伎を観る。今回は、清元志寿太夫で「権八小紫」孝玉コンビの「助六」で昼夜連続。一日中舞台を堪能したわけだが、本当に楽しかった。
思えば、私の歌舞伎好きは、今は亡きA小母さんの影響かもしれない。彼女は、母の女学校時代の同級生。もっとも病のため遅れており、四つ程年上だったそうだ。その事を、級友達にからかわれたこともあった、と聞く。早くに父親を亡くし、身障児の寮母として働き、母親や弟妹を養っていた。
新婚間もない母が、
「毎日、食べて行くのにお金がいると、初めて気がついたわ。」
と、話したところ
「私は、小学生の頃から、毎日母親と米櫃の中を覗いて、明日の心配をしていたのよ。」
と、笑ったそうだ。
しかし、その合間に華道の師匠となり、「源氏物語」を初め、古典に親しみ、まだ観光客も疎らな京都奈良、さらには室生吉野まで仏像を訪ね歩き、能や歌舞伎を愛する趣味人でもあった。
仕事が休みの日には、地味な着物に薄い髪をひっつめに結って、遊びに来ていた。その体つき同様、細く長い肉のない手で、せっせと編み棒を動かし,御茶を飲みながらの話は、
「菊五郎がーーー、松緑はーーー、政岡はーーー、八つ橋がーーー」
梨園の人々も、忠義を尽くす武士も、簪が重たげなお姫様も、白波の渡世人も、吉原の花魁も、皆身近に感じられたものだ。 子供の頃、我が家に毎年飾られていた役者絵の暦は、 A小母さんからだった。
そういえば、何時であったか、その一枚を見ながら、
「阿古屋は、三つの楽器を舞台で演奏しなければならないから、大変なのよ。」
と説明されて以来、一度本物を舞台で、と願っている夢は、まだ果たしていない。私が,日本舞踊を習い始めたのも、大きくなったら舞子さんや芸者さんにと、幼い心に一時憧れたのも、長唄や踊りの事を話す A小母さんが、実に楽しそうだったからかもしれない。
特に歌右衛門丈が、贔屓で、こう書くと丈に失礼になりそうだが、顔立ちまで似て見えるほど。誠実を絵に描いたような人だったから、優艶で、しかも気迫のこもった丈の舞台を心底から好いていた。今回「相生獅子」を華麗に舞った児太郎を観たら,どれほど喜んだことだろう。
生涯独身、曲がったことが大嫌いな性格のため、現実には辛い事も多く、余計夢を与えてくれる舞台を愛していた気持ちが、今になると一層よくわかる。
その容姿同様、ややもすれば剛直に見られながら、心の奥底には、柔らかな懐かしいものが、秘められていたのだろう。
「わたしのような暮らしをしている者が、生意気と言われるかもしれないけれど、ただ、働いて食べて寝ているだけの生活では,何か空しい気がするの。乾いてしまうように思えるの。」
母に、真顔で語ったそうだ。
私が,これほど歌舞伎好きになる事も知らず、とうとう一度も一緒に舞台を観る機会もなく、 A小母さんは十八年前、五十歳にも満たぬ若さで、癌で逝ってしまった。今は巴里暮らしのため,思う存分というわけにはいかぬが、芝居を観る度に A小母さんを思い出す。そして、いつか形見の黒真珠の小さな簪を挿して、阿古屋を観たいと思う。』

紅葉はや散りはてぬらむ深山路を独り歩める旅人の影


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Author:桐の葉も
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