『ドン=キショット』

最近,気がつくとよく口ずさんでいるのが、『ドン=キショット』。幕開きのキトリの登場や、結婚式のパ=ド=ドウなど。陽気で華やかで,如何にも年末年始の舞台にふさわしい。
もう何度みたことだろう。棚に並んだプログラムは、1997年から。切符や配役表で確かめる。オーレリーとルグリ。ギエムとイレール。レテスチュとホセ。レテスチュと招待のボレロ。ドロテとエマニュエル。ミリアムとエマニュエル。超絶技巧と美貌では、最盛期のシルビー=ギエムとローラン=イレール、情感と若々しさではミリアム=ウードブラハムとエマニュエル=チボーが、一番印象に残っている。
そして、今回はドロテとパケット。
西班牙の血の流れるドロテに、キトリは適役。技術的にも定評がある。気は優しくて力持ち的なカール=パケットもエトワールになってから、よくなったと好評。森の精の女王のマリー=アニエスが休演だったのは残念だった。群舞もそれぞれ見せ所が多い。
ヌレエフの振付けは,踊り手にとっては至難の技だろうが、観客としては、次から次へと変わっていって、全く飽きない。時代背景と土地柄に忠実な舞台装置。ドン=キショットの痩せ馬も、巨大な風車もそのまま出て来る。バルセロナの町の広場も、居酒屋旅館も、見事に再現されている。目も彩な、しかも上品な衣装。闘牛士は闘牛士(闘牛反対だけれどーーー)、にせ坊主は、にせ坊主、放浪の騎士は鎧を付けて,と、皆それぞれすぐに判る。(なぜ、これが歌劇では出来ないのだろうか.同じ西班牙を舞台にしながら、今回の『カルメン』の演出の酷さ。)
そしてなによりも変化に富んだ軽快で華麗な音楽。舞台も客席も、上機嫌に巻き込んでしまう。
初めて同行したM氏は、「今まで観たバレーの中で一番好きだ」と、大喜びしてくれた。

きららかな光溢れて幕は降りセーヌ川波たゆたう夜更け

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『バヤデール』

今日のバレー界の至宝、ザハロヴァ主演『バヤデール』。
ヌレエフの遺作は、美しい音楽と華やかな舞台で、何度観てもバレーの醍醐味を堪能できる。印度の巫女ニキア、騎士ソロル、王女ガムサチの三角関係。劇的な内容に相応しく、変化に富んだ最初の二幕と、クラッシックバレーの精髄ともいうべき夢幻的な第三幕からなる。パリ=オペラ座では、これまでも、いろいろな踊り手で観た。中でも印象に残っているのは、やはり初演の三人組イザベル=ゲラン、ローラン=イレール、エリザベス=プラテルだろうか。二十年の歳月がたち、オペラ座バレー学校の校長となったプラテルが客席にいた。
ヌレエフの故国露西亜の名花ザハロザは、すでに十年近くオペラ座に客演で来ているので、この『バヤデール』も二度目。今回も、優美、典麗とは、こういうことをいうのか、という踊りだった。特に長くしなやかな腕が印象的。動きが残像のように残る。ソロルとガムサチの結婚式の場。強いられた祝福の踊りから絶望して死ぬまでは、技術と演技力の見せ場。涙ぐみそうになった。
相手役ステファンは、流石に落としかけるという事故は起さなかったけれど、かつてのイレールやバールの安心感はなかった。何故だろう?
新エトワール、リュドミラも頑張っていた。
このバレーの衣装は、美しいだけでなく、それぞれの役柄の性格まで表しているようだ。ガムサチの表が紫(高貴)、裏が赤(情熱)のチュチュは、舞台衣装の傑作の一つだろう。舞台装置も、格段に豪華。印度の寺院と宮殿が、手際よく変換する第一幕、象や虎まで出て来る第二幕等、歌劇でも参考にして欲しい。
同じ作品を、何度も観ていると、それまで気付かなかった事が、ふっと見えて来る.年齢のせいもあるのだろうか?今回、自らの死を覚悟したヌレエフが、どんな思いでこの作品、特に第三幕を仕上げていったのか、その心中に粛然とした。かつての相手役を協力者として露西亜から呼び寄せ、終幕宮殿の崩壊ではなく、死者の国『影の国』で、ソロルとニキアの踊りで終わらせた。脚本としては、不自然の感はあるのだけれど、瀕死のヌレエフは、そうせざるをえなないはがゆさに苦しんだのか、もしくは、このバレーの基本ともいえる場面を遺言として残す事に納得していたのか。
未完ゆえの完成、ということもあるのかもしれない。

春ながら藍深まりて星一つ

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狂言の笑い

今度の日本文化会館の案内書の表紙は、大事に保存しておいて時々眺めたくなるような写真である。
白い絹のような髭が顔の半分を覆っている、なんと福々しい老人。善い顔だなあ、と見惚れる。一瞬、恵比寿様と間違えてしまいそうだが、実は、 狂言『船渡婿』の船頭。挨拶に来た婿と知らずに、船中で土産の酒を一緒に飲んでしまう舅。
野村萬丈は、1930年、昭和五年生、82歳。母と一歳しか違わない。戦中に幼少年期を過ごし、戦後の貧困と混乱の中で青春を迎え、その後目覚ましい経済発展とともにひたすら欧米化し、バブルがはじけ、再び逼塞しつつ未来を探っている日本を生き抜かれた。そういう世代の一人であられる。
『狂言からみる日本の笑い』と、題された丈の講演会は、充実していた。控えを読み直しても、柔和の内に、気骨を秘めた丈の温顔が蘇って来る。
冒頭、まず狂言の歴史を説明されながら、狂言が一つの独立した舞台芸能であることを強調された。中国伝来の散楽の古風を残し、能とは『性格の違う双子』であると、定義された。うっかりすると能の添え物のように思われがちなこの笑劇について、 この点一つだけでも認識を改めることができてよかった。
さらに、狂言の笑いは、「微笑みだぞ、爆笑ではないぞ」という、師でもあった父君の言葉をひく。狂言師が学ぶのは、舞台へ出る技術、声と身体の修練であって、強いて笑いを誘う術ではない。世阿弥の「幽玄の上品の可笑し」を理想とする。「狂言なればとて卑俗な言葉や仕草は厳にいましむべし」。低俗、悪質な笑いへの警鐘ともいえよう。
仮面の話も、興味深かった。狂言でも仮面を被る。代々の修業は、「猿に始まり狐に終わる」が、この両者とも面を被る。画面に映し出された小猿(靭猿)の無邪気さ。それに対し猟師に殺生をやめさせようと老狐(釣狐)の化けた僧侶白蔵王の面は、「内への心、内的な力」を要求する役柄だけあり、生死の不可思議さをたたえている。
もう一つ「武悪」の面が出た。「怒るがごとく、泣けるがごとく、笑うがごとく」中間表情の鬼の面。実際、舞台上で動く姿を一度観てみたい。
丈は、また、狂言の将来に心をくだかれているのだろう。詩人大岡信の「日本文化を支える大きな力は、忍耐」を引用された。狂言の軽妙洒脱も、重量感のある重みの果ての軽み。忍耐を越えた所に、面白さ、楽しさがある。この忍耐は、役者だけがすればいいのではない。観客も忍耐しなければいけない。伝統文化を見守り育てていくために。
最後に「舞台を観て下さい」と、大きな声で言い切った丈は、初舞台を踏んだ子供と変わらぬ天真爛漫な笑顔であった。

一面に並んだ車の窓硝子白雪の上に落書きの跡


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『能の世界』講演会

巴里で催される日本の伝統芸能会には、なるべく行くようにしている。元来、好きであるし、懐かしい。
日本文化会館の能と狂言の公演も、ほぼ欠かさず観ていたが、今回は、日にちが合わなかったうえ、すぐ売り切れてしまったそうで、見損ねた。残念。
幸い、能狂言それぞれの役者さんによる講演会を聞く事ができた。
巴里でも、さまざまな主題の講演会に行く機会があるが、心に残る会は、それほど多くない。ただ、時折、 話者ならではの内容が、その顔の表情や声の抑揚等と相まって、深い印象を与えられる事がある。
今回の二つの講演は、その好例となった。
一日目は、能の世界。
演目『安達が原』は、京都の金剛流では『黒塚』として、馴染みがある。
シテ方武田宗和丈とワキ方宝生閑丈。
今回、初めて、能では舞台上の道具を、役者達一座の者で作ると知った。衣装や面の手入れ、着付け等もすべて自分たちでしていて、大道具小道具化粧等、特殊な係はないそうである。今回の公演にも、参加者は十九人だけ。その十九人で総てしてしまう。
歌舞伎との大きな違いという。
全く家内作業的な、手作りのぬくもり、丁寧さがある。
そういえば、毎年七月に、金剛能楽堂で衣装の虫干しがあり、能楽好きの母と、観に行った。あの衣装の管理も宗家みずからしているということなのだろう。
宝生閑丈は、終始莞尒とされて、余り話されなかった。
しかし、最後の『安達が原』の終わり方への言及h、今の時代を省みさせずにはいられなかった。鬼女は、その悪鬼を調伏せられて、自らを恥じ、去っていく。かつて舞台上で、紐がきれ数珠の玉が、飛び散る椿事が起こったほどの激しい僧侶の祈りの目的は、相手を滅ぼす事ではない。救う事である。確かに、修羅ものの多くは、成仏出来ない魂の怨念が和らぎ、浄化されていく。同じ般若の面の『葵上』や、『清経』『頼政』等の唐突とも、あっけなくも見える結末は、ある瞬間、ふっと救われる、人智では図りがたい仏の慈悲を信じなければ、理解しがたい。言葉少ない丈の静かな声は、仏道の奥の深さをしみじみと訴えておられるようであった。

長き夜の闇に踊りぬ春の雪


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ガルニエ劇場の大晦日

雨がちの大晦日。
巴里オペラ座ガルニエ劇場の特別上演「エフゲニー=オネーギン」。主要四人は、カール、ドロテ、エヴァ、期待のオードリック。舞台脇の席だったので、前回よりも足元や表情。群舞の衣装も細かい所まで観る事ができた。幕が下りると拍手喝采。
何と言っても、特別上演の夜の魅力は,劇場全体に醸し出される華やかで明るい雰囲気だろう。正面の大階段、吹き抜けの各階の至る所にシャンデリアや燭台が煌煌と輝いているのは、何時もと同じだが、この晩は一層、眼も眩むばかり。更に、大階段の手すりが,樅の枝、乳白色の紫陽花、銀に染めた柳,くす玉を思わせる球形の飾り、宿り木等で飾ってある。開演前に、場内を一巡りする。 廻廊へ行けば、高い天井画、金色の浮き彫りの施された柱。眩しい光の反射する鏡。 真っ赤な電球を飾った大きな樅の木の前で記念撮影。幕間には、会場の所々に、飲み物やおつまみが並ぶ。
そぞろ歩くのは、色とりどりに華やいだ服装の婦人達。中には肩を出したロング=ドレスも。紳士達は、芸術家風の着こなしや、上下揃いが多い。M氏の臨席の紳士は、赤、よく誘ってくれる舞台好きの知人は黒の蝶ネクタイを締めていた。もちろん、着物姿も。
皆、何となく和やかに微笑み合っている。
桟敷席だったが、隣の婦人は「見にくかったら、もっとこちらにきていいですよ」などと、自分の椅子を詰めてくれた。相席の初老の夫婦も常連なのだろう。ルグリのさよなら公演を観たと言う。夫人は彼のオネーギンを忘れられないそうだ。
終幕後、花などを記念に持ち帰るのも恒例となっている。最初、作り物かと思った宿り木。濃い緑の枝に細長いの葉,半透明にも見える白い小さな実がついている。この枝を逆さまにつるして、1月31日まで保つ事ができれば、一年間幸運に恵まれると教えて貰った。
帰りに舞台好きの知人達と、珈琲店に入った。こうして一年の節目を過ごすと、時の流れを感ぜざるを得ない。
M氏は,わかい頃歌劇好きの父親とよく来た思い出を語り、知人の一人は、セルジュ=リファールを懐かしむ。半世紀以上も前の話である。いつのまにか私も、かつてのエトワールの話をしている。前回、大晦日にガルニエに来たときから、随分経っているので。過去のエトワールを振り返るともに、今の若手の有望株の品定めもする。
一昨年、昨年の大晦日、そして来年はーーー。
暗いセーヌの流れを横に見て、家路に着いた。エッフェル塔の近くは、花火を待つ人の群で一杯だった。

陽は昇り陽は沈むのみ去年今年

偶々、元旦の夜は、テレビで仏蘭西人の大好きな「大迷走」を放映していた。フュネスとブーヴィエの名コンビによる喜劇。ガルニエ劇場が、主要な舞台の一つとなっている。フュネスが演じるオペラ座指揮者の控え室、楽団席、昨夜歩いたばかりの大階段や廊下が、画面に出て来る。天使猫亜子ちゃんの写真とともに、孫猫真心子をあやしながら見ていた。



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