靴直し

「できていますよ。」
客が二人も入ったら、身動きがとれない店先。台の向こうの主人は、大きな男物の靴を持ったまま、にっこり笑った。
間口一メートル強であろうか。細長い店には、修理中の靴が山積み。後ろの棚には、修理を終えた靴の袋が並んでいる。色とりどりの靴墨、木型、靴篦等も売っている。
渡仏して来て驚いたのは、皆、靴を大事にすること。縦の物も横にしない男の人でも、靴だけは丁寧に磨くという話をよく聞いた。そして、街の角角に、靴の修繕屋がある。此の店と馴染みになったのは、何時頃からだろう。
カンボジア人の中老人の主人は、何故か写真でみかける東南アジアの僧侶達を思わせる。面長で目鼻立ちもほっそりしている。しなやかな指先が、如何にも器用そう。奥から、靴を手に出て来た奥さんは、目も口元も丸い童顔、いつも、少し恥ずかしそうに笑う。
今回は、よく履く編み上げ靴の踵だけでなく、前部が少し破れていたのも、繕ってもらった。靴の他にも、些細な革製品の修理を引き受けてくれる。先日は、書類鞄の取っ手を直してもらった。丁度手頃な部品が無く、取り寄せてもらったので時間はかかったが、これで学生時代からの鞄を使う事ができる。
靴も鞄も、修理に出すよりも新しく買った方が、安く流行にも遅れないのだろうが、何故か、同じ物をいつまでも使っている。

足にあう一足の靴今日もまた青み微かな空を見上げて



マーラー『さすらう若人の歌」

人それぞれと思うが、私にとりマーラーは、演奏会場に行って聴きたい作曲家の一人。
最近は、器械が発達し、音楽も自分の好きなさわりだけを聴くことができるようになった。しかし、一つの作品の中に、退屈と思われる部分、余り好きでない部分もあるからこそ魅力が増すという面もあるような気がする。
交響曲の第二楽章だけ取り出してしまうと、第一楽章や第三楽章との対比が消えてしまうように。また、余り面白くなかった部分も、聞き慣れるに従って好きになることもある。
実は、マーラーは、どちらかというと、(私にとり)この苦手な部分のままある作曲家。演奏会場の椅子に座って、聴き通さざるをえない状況にならないと、じっくり味わいにくい。
多分、純粋に音楽としてよりも、その周囲から聴くようになったためかもしれない。最初は、ヴィスコンティの『ヴェニスに死す』。その後、『ブッデンブローク家の人々』(望月市恵訳)を読んでいた頃、ラジオで加賀乙彦の談話を聴いた。詳しくは、忘れてしまったが、マーラーの旋律とトーマス=マンの文体とボヘミア丘陵地帯の自然について触れていた。ボヘミアには行った事がなく、独逸語は皆目わからなかったが、ゆったりと息をしながら、自分のリズムで音楽や文学を楽しむ事を教えられた。
もっとも、今回は比較的短い作品。交響詩『葬送』と、『さすらう若人の歌』。特に後者は好きな曲。これも、ベジャールのバレーで馴染みとなった。(ルグリと踊ったイレールの『さよなら公演』もよかったが、最晩年のヌレエフがデュポンと踊った舞台も忘れがたい。)
初めて聴くサラ=コヌリーの澄んだ豊かな響きのソプラノが快かった。シャンゼリゼ劇場の馬蹄型の会場の隅の隅、混んでいなかったので、唯一人で薄暗いロッジで聴いていると、遠いボヘミアの丘を超えて吹いてくる風の声のように思われた。

霜枯れの草むらなびく風のむたそのはるかにもまた冬の丘

『クロード=モネ  (1840−1926)』展、終了

何回か通った展覧会が終わってしまうのは、ちょっと寂しい。特に、今期の『クロード=モネ (1840—1926)』展は、充実していた。五十数カ所から二百点近く、それも全く離れた所にある同主題の作品を並べる趣向。個人蔵も多く、もう、二度と見る事ができないかもしれないと、勢い込んでしまった。
いつも、かなり混んでいたので、観たい作品群を大体決めて行った。
一人で見る時には、画面に様々な思い出が重なる。
ドーヴィルの浜辺を馬で駆けた後に立ち寄ったトルヴィル、氷雨のオンフルール、夏雲が眩しかったルーアン、まさしく睡蓮とアイリスのジヴェルニー。
猫達の思い出もある。サン=ラザール駅。渡仏後まもなく、週に一度、仕事でル=アーブルへ通っていた。時には、一泊する事も。日本から連れてきた二匹の猫達を留守にして行く朝の心細さ。同じ駅でも明るい色調の絵よりも、隣の青を主体とした方に近い心境だった。
ベル=イルへは、フランス生まれの二匹の猫達と行った。車ごとフェリーで島に渡り、入江の奥の静かな宿泊所へ。好奇心旺盛の黒白猫亜子ちゃんは、さっそく椅子にのって、窓の外に見下ろす波打ち際や、高い声で鳴く海鳥を眺め、恐がりの黒い太っちょ美実ちゃんは、その椅子の下に隠れていた。初めて見る大西洋の荒波は、モネの描くように奇岩に打ち当たり白い泡を飛ばしていた。
友人知人達と、同行するのも楽しかった。それぞれ全く別の角度から、教えられる事ばかりであった。
絵の知識のある人たちは、 門外漢の私が、ぼんやり、ただ美しいと見ていた 画面の構成配置 色彩の配合や 筆使いについて説明してくれた。
ある日本の伝統技術の職人さんは、額縁にも非常に興味を示していた。
日本から旅行で来た娘さんは、展示会場と展示方法に、贅沢ですねえ、と感心していた。日本では考えられないくらいゆったりと、しかも豊富であるという。
「朱い花が好きなのですね。それから、 海辺の崖も。」何度も来ていたのに、私は、気づかなかった。まだ十七歳の少年の言葉に、明るく飛翔する未来が思い浮かんだ。
ノルマンディーの海、べツーユ、テームズ河、白楊、太鼓橋等々。同じような絵を前に、「どれが、好き?」と、尋ね合ったり、間違い探しの遊びのように、些細な違いを発見したり。
ちょうど雲が低くたれ込めがちな冬の巴里、光と風が画面から溢れてくるモネの絵に心も清々しく、温まった。
ところで、グラン=パレでは、昨年度ルノアールの、次いでターナーの回顧展を企画した。何か一貫性があるのかもしれない。次回は、風景画の出発点ともいえる17世紀前半のローマを描いた作品を集めた『自然と理想』展と予告が出ていた。

ひそやかに冬の雨降るこのあした辛夷の花の芽ぐみそめたり







人形達

年あけ早々、転んでしまった。
巴里北方の骨董市場。服飾品、室内調度品、食器、家具等目移りするものばかり。そのうち、狭い路地の奥、他は閉まっているのに、一軒だけ開いている店の灯りが目に入った。
人形の店。
駆け出した途端、段差があり、ばたん。まだ若い女主人も吃驚。
狭い間口、奥行きも殆どなく、店の外にまで、箱に入れたままの商品が並んでいる。天井までの硝子戸棚の中には、大小さまざまの人形。金髪栗毛、大きな瞳、半開きの口元、顔の表情が、それぞれ異なっている。服装も凝っている。ふんだんに使ったレースやリボン、『赤毛のアン』が憧れた膨らんだ袖、細かく寄せた襞、真珠のような釦、ベルトの金具、総てに手がかかっている。 帽子、鞄、お散歩する犬の服まで。専門の仕立て屋がいるそうである。
この人形達は、どんな家庭で可愛がられ、これから誰の所にいくのだろう。
巴里の住まいのピアノの上にも、遥かに質素な四体の人形が並んでいる。 亡父土産のハンガリア人形は、色鮮やかな刺繍の民族衣装。 西洋人形の内、 亜麻色の髪青い目の方は、輸入品。何故か、髪の毛が散切りに成っていた。母が、水色い花柄の洋服と帽子を揃いで作ってくれた。栗毛栗色の瞳の方も、母手製の赤い長いドレス。皆、小さな頃から一緒にいる。
恐らく年代的には一番古い日本人形が、最後に加わった。渡仏後、私に似た人形を見つけたと、母が書いて来た。 以前二人で時々立ち寄った大徳寺前の古い人形専門店にあったという。帰国した時、初対面して、一瞬がっかり。「このぼうっとしたところが、そっくりなのよ。」
彼女も着ていた着物が傷んでいたので、昔、母の親友A小母さんの作ってくれた格子柄の単衣を着ている。
人形は好きだけれど、人形遊びは殆どしなかった。名前もつけていない。
物心ついた時から、家の中には、いつも猫がいた。猫に、呼びかけ話しかける生活だった。人形達は、ただひっそり坐っていてくれるだけで充分だった。そして、かれこれ半世紀がたった。
ふと、思う。
ある日、私がいなくなった後、此の子達はどうなるのかしら。

『ぷ〜ちゃんのお靴』

猫のぷ〜ちゃん、
ご機嫌ななめ。

雪が、とっても
冷たいの。
お洒落なお靴が
はきたいわ。
巴里のお靴が
欲しいのよ。

ぷ〜ちゃんのお靴を
さがしましょう。
お人形のお靴は、
どうかしら。

あらあら、
なんだか 
おかしいわ。
足の形が
違うのね。

ぷ〜ちゃん、ほんとうに
ごめんなさい。
遠い巴里のお店にも
似合うお靴が 
なかったの。

白くかがやく
雪の日は、
窓からお外を
見ていてね。

(まねき猫ぷ〜ちゃんへ)

中世ルネッサンスの音楽

グラン=パレの視聴覚室では、展覧会に関連した講演会や映画等が企画されている。その内『仏蘭西 1500年』関係では、 教育映画『アンヌ=ド=ブルターニュ』は別として、今までに、映画二作と音楽会に行った。中世とルネッサンスの間という時代設定なので、適切な作品を見つけるのが難しかったそうである。
『狼の奇跡』は、ルイ11世時代が舞台。ジャン=ルイ=バローとジャン=マレ、名優揃いの(超)娯楽作品。中年勇士が、花飾りを綱替わりにターザンのように跳んだり、狼ならぬ犬の群が、雪の野原に膝まずいて祈る美女を囲んで護ったり。しかし、会場の誰もが、時には笑い声をたて、機嫌良く見終わった。
『悪魔が夜来る(邦題)』も、ジュール=ベリー、アラン=キュニー、アルレッティと豪華配役。名監督マルセル=カルネ。お伽噺めかして、実は、いろいろ暗示しているそうだが、そうした裏は抜きにしても、充分印象に残る作品。まず、黒白画面の美しさ。展覧会に展示されていた数多くのつづれ織り壁掛けや細密画を思わせる。俳優の演技も、お芝居の舞台を観ているようで、格調高く品がよい。(アラン=キュニーのひたすら訴えかける台詞には、ちょっと驚いたが、後年、たまたま来日した彼と同宿した人の話に依ると、地声もやや似た調子だったらしい。)
音楽会もよかった。
九人の音楽家に依る中世、ルネッサンス期の聖俗交えた声楽と器楽曲。四人の男性歌手と、リュート、縦笛、ヴィオラ=ダ=ガンバ等、当時の楽器を手にした奏者が、指揮者とともに舞台に並んだ。七人の男性が、皆背広の上下にネクタイを締めているのも爽やかな印象。
原詞と現代仏語訳が配られた。国王讃歌などもあるが、全体に悲しい曲が多い。鎮魂歌を最初に、アンヌ=ド=ブルターニュの死を悼むのではないかとされる歌で終わる。コントル=テノールの先唱で多重音声の歌が、始まった。最初はやや戸惑ったが、曲目が進むにつれ、次第次第に引き込まれていった。
能楽堂で謡を聴いている時に、少し似ているかもしれない。
言葉は、全く聞き取れない。旋律も、総て同じようで、一度で覚えられる類いでは、全くない。拍子も単調。唯、長く引き延ばされた音声のみが、空気を伝わってくる。もの哀しいが、暗くはない。寧ろ不思議な明るさ。
外国にいる限り、言葉は自国にいるよりも、更に空しく頼りにならない。それよりも、一輪の花、一片の雲、一双の猫の瞳、一音の響き。
心が静かにのびやかになっていく。

遠き世の誰か歌ひし一節に心に浮かぶ冬茜雲

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桐の葉も

Author:桐の葉も
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