古い写真から (三の一)

M氏の祖父靴屋のJは、とても穏やかな人だったそうである。M氏の幼い時に亡くなっているので、覚えているのは、最晩年、殆ど動けなくなっていた姿という。
J一人の写真は、無い。田舎の家の台所兼食堂の食器棚の上には、A町の目抜き通りに構えた店先で、妻のM***と並んで写した一枚が飾ってある。1900年代、Jは、四十歳ほど。父親の蹄鉄師M同様、細面でかなり立派な口髭を蓄えている。眼と眼の間が少し狭いかもしれない。上目使いに見える程、ちょっと頼りない表情をしている。体つきも、Mが頑丈だったのに対し、靴屋の大きな前掛けにもかかわらずほっそり見える。
対するM***は、幾分えらの張った彫刻的な顔立ち。胸高にコルセットを締め、黒っぽい服も、やや斜めに結い上げた廂髪も乱れがない。彼女の方が、ほぼ頭一つ分高いので、蚤の夫婦かと思ったが、そうではなかった。店の入り口に階段が二段ある。Jは、その下の方にたっているだけであった。しかし、この第一印象は、なかなか消えない。
Jは、店の奥で客の足に合わせた靴を作り、M***が、店の切り盛りをしていた。入り口に向かって右側の飾り窓に、男物、女物、子供用の靴が展示してある。Jの作った靴と、仕入れた靴と両方を売っていた。反対側の飾り窓には、さまざまな帽子。メロン帽、ボルサリーノ、カスケット等。手袋らしき物も見える。靴のみならず、服飾小物も手がけていたのかもしれない。想像を逞しくすれば、女主人のお伴をして巴里にも時々いっていたらしいマリア大伯母さん(Jの異母姉)から、都会の流行の情報を得たりしていたのかもしれない。もっとも今ほど流行り流行りと言わなかったとも思える。大戦中、履物に不足した時は、屋根裏に残っていた靴が役にたったそうである。一番左の飾り窓には、十数本の瓶が並んでいる。葡萄酒瓶ほどの大きさ。靴屋で酒精を売っていたとも考えにくいがーーー。何だろう。
写真は、巡回の専門家が撮った物らしい。M***の廂髪とJのカスケットの斜めの線が綺麗に揃っている。Jが片手に婦人靴を片方だけ持って居るのも、演出ぽい。写真に付いた厚紙の枠には、「写真B***」と巴里の住所が印刷してある。ネットで調べてみると、今も四区にある通りであった。
ところで、この厚紙の枠を少し外すと、隣の店の看板の最初の一文字Pが見える。薬局(Pharmacie)である。公証人B夫人が「A町歴史談話会」で、話していたように、全体に貧しい代わりに、犯罪も事件も少なかったA町で、珍しく起こった悲劇の舞台である。

雨を待つ 玉蜀黍の 緑濃く





古い写真から (三の二)

(承前)
「R氏は、B***市の市長だったそうだよ。」
と、M氏に言われても、地理に疎い私には、ピンとこない。アルジェリアの主要都市の一つだそうである。彼は、M氏の祖父母J=G夫妻の靴屋の隣の薬局の主であった。(写真のPの店である。)1910年代半ば過ぎ、第一次世界大戦の終わりごろ、当時の仏領植民地から引き上げてきて、A 町僧院長通りの薬局を買い取った。仏蘭西では、各町で薬局の数が決まっており、薬剤師(多くは薬学博士)の資格も必要であるから、簡単ではない。彼は、B***市でも薬局をもっていたのかもしれない。
しかし、引退したらしいとはいえ、 B***市の市長職の後、何故仏蘭西中央部ソーローニュ外れの小さな町に住着いたのだろう。今でさえ周囲の集落を合わせても人口六千人、当時は更に少なかったろう。20世紀初め約百万人の仏蘭西人が住んでいた北アフリカ海岸部は、住みにくくはなかった筈である。
「この町の出身だったのかしら?」
「いや、この地方出身でもないという話だったよ。」
R氏は、J夫妻とは、単なる善き隣人であったが、氏の父親F***とは、親しい友人であった。F***は、1917年、略同時期に南仏から赴任して来た。R氏の方が、一世代程年上であったが、二人は気があったらしい。同じ地中海沿岸に生活した者同士、輝く太陽と青い海と、銀色に煌めく橄欖のそよぎとが、懐かしかったのかもしれない。元来穏やかで、一度も怒った事の無いというF***も、この地方を「地獄の土地、地獄の天気、地獄の住民」と、嘆いたそうだから。風土、気候、食べ物、総てが違っていたのだろう。交通流通も今程盛んでない時代である。
しかし、公務員として銃後の補充に送られて来たF***と異なり、R氏は、自分の意思でやってきた。独り身で身よりはなかったそうである。少なくとも、A町に来た頃は。
その彼が、自殺した。
自分の店で。毒を仰いで。
「薬剤師だからねーーー。」
店は手放す事になっていたらしい。その少し前、「大事な店を売らないとーーー。」と、F***に語ったそうである。しかし、薬局自体は随分繁盛していたと言う。
何か他の理由で、たとえば、株とかで、経済的にゆきづまっていたのだろうか。第一次世界大戦後の経済変動で破産した人は、たくさんいる。それとも、人に言えない複雑な過去があったのだろうか?それが、明るみに出そうになったのだろうか?
もしくは、単に、冬には特に暗く淋しくなる土地柄のせいで鬱状態だったというのだろうか?
「誰も、何も知らないんだよ。」
R氏の最後の晩、J夫妻は壁越しに隣家からうめき声を聞いたような気がする、という。まさか、臨終の苦悶とは、思わなかった、と。
M氏は、もう一度首を傾げた。
「父と母とが、何故知り合ったのか、聞いた事はないのだけれど。母は、1917年には20歳、既に三年前からソーローニュの別の村の小学校の先生をしていて、A町には、住んでいなかったーーー。もしかしたら、休みに帰って来たときなどに、R氏から紹介されたのかもしれないねーーー。」

バルザック 読みさし仰ぐ 積乱雲


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号外 13

『被災地動物情報のブログ』さんからの転載です。
当ブログでは画像を」ご紹介出来ませんので、もとブログの方を是非御覧になってください。
「犬と猫と人間と」は、一人の猫好きの老婦人の活動から始まった映画です。
ご存知の方も多いとは、思いますが、これを機会にもっと知っていただけるようになったらと、思います。

『2011-07-28 03:40:13
被災地ペットの関連書籍。
テーマ:動物ニュース&お知らせ
震災から4カ月が過ぎ、
被災地のペットや動物をテーマにした書籍が
いくつか出版されはじめています。

今後も増えていくと思いますが、
現在発売されている3冊を紹介させてくださーい。

●うちのとらまるのカメラマン太田さんの本

のこされた動物たち 福島第一原発20キロ圏内の記録/太田康介

¥1,365

●APF通信山路さんら20キロ圏内犬猫救出プロジェクトさんの本
ゴン太ごめんね、もう大丈夫だよ!/著者不明

¥1,200
●「どうぶつたちへのレクイエム」児島さんの最新刊!

同伴避難/児玉小枝

¥1,260
Amazon.co.jp

テーマ:動物ニュース&お知らせ
※坂本美雨さんのブログより
http://ameblo.jp/miu-sakamoto/entry-10957925318.html

先日「日本を殺処分ゼロの国へ!」
と動物愛護管理法改正の署名を提出された
坂本龍一さんの娘さんで、
動物愛護活動に励まれている美雨さんも
8月4日に「いぬねこうしまつり」と言う
被災ペットのためのライブとトークショーを開催されるそうです。
【関連記事】お父さんの被災地イベント出演情報
http://ameblo.jp/japandisasteranimals/entry-10966050811.html

・・・以下転載・・・




8/4(木)@club asia
【いぬねこうし まつり】


大震災による被災動物たちの「いま」を伝え、
これからの動物と人の関わりを考える、
ライブ&トークイベントです

会場にて募金活動、グッズ販売も行います!
ご協力お願いいたします


【場所】Club asia(東京・渋谷)
東京都渋谷区円山町1-8
http://www.clubasia.co.jp/

【時間】17:30 Open/18:30 start 

【チケット】1000円 (ドリンク別)
電話予約:Club asia: 03-5458-2551 (15時~23時受付) 

【ライブ出演】
・Robin&Shimmy (Robin Dupuy & Shimizu Hirotaka)
・坂本美雨
・akiko

【DJ】
・信藤三雄 (アートディレクター)

【トーク出演】
・飯田基晴(映画監督。「犬と猫と人間と」 監督 )
・山路徹 (ジャーナリスト)
・渡辺眞子 (作家)
・友森玲子 (動物愛護団体Rencontrer Mignon代表)
・司会:湯山玲子 (著述家)

【映像】
「犬と猫と人間と」(ショートバージョン)
「クロからの質問」(渡辺眞子原作)
「被災レスキュー報告VTR」






グラン=トリアノン

ヴェルサイユ観光と言う長い半日でも、ふと蘇ってくる光景は、限られた一瞬。
その日は、朝から陰晴不定。上天気かと思えば驟雨、小雨が暫く続くのかと案じていると晴れ間は急に強い陽射しとなった。それでも、午後の後半からは比較的落着いた。人いきれにぼうっとしながら豪華絢爛華麗荘重と、形容詞も不足するような宮殿を出て、水たまりを気にしながら庭園を抜け、グラン=トリアノンへ向かう森に入るや、心地好くなった、高く深い木立。幅広い道が通じている。 運河の畔に出た。岸辺は広々とした芝生、松葉波が輝き、 数羽の水鳥が羽ばたきしながら啼いている。自転車の女性が、叫び声を挙げた。「やめなさい。すぐ、こっちに戻って。」男の子が、運河の縁を自転車で走っている。十歳くらいだろうか。栗色の髪が、風に靡いている。「わかったよう。」と上機嫌。「すぐ、やめろ、やめないか。」父親らしき男も、急速度で、少年の正面へ自転車を走らせて来た。すれ違って急停車した途端、男の自転車のチェーンが外れてしまった。少年は、慌てて自転車を止め、吃驚したように振り返っている。何だか、にこにこ笑っているようだ。
風と光に向かい、彼は、全速力で自転車を漕がずにいられなかったらしい。
グラン=トリアノンの回廊の柱の台に腰をかける。薄青い空を限るのは、自然のままの遠くの森木立。手前には幾何学的に刈り込まれた生け垣、色とりどりの花壇の花。紫系統に赤が効いている。蜂や蝶々もいるのかもしれない。
雨上がりの夏の光が凝固したような一瞬。
この光の静けさは、確か、何処かでーーー。
モネ展の一枚の絵。赤い花の咲く花壇の側で、一人の紳士が新聞を読んでいる。初期の作品なので、光はまだ分割され尽くさず、濃い影とともに静かな落ち着きを醸していた。最初は通り過ぎる程の小品であった。それが、一度惹かれると通う度に、立ち止まった。 あの紳士の感じていた陽射しと空気とを、今、此処に感じているのかもしれないーーー。個人蔵とあったから、もう観る機会もないだろう。しかし、今後、あの絵を思い出す時は、夏の午後のグラン=トリアノンと分ちがたくなるような気がする。

何処より梢を渡る風の音に微かに響く山鳩の声


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珈琲館『邪宗門』

庭の菩提樹の傘のように枝垂れた梢越しに揺らめく陽射しを眺める田舎の家の台所でも、隣の建物に区切られた小さな四角い空を見上げる巴里の台所でも、毎朝、珈琲を入れる。ドリップ式。以前は器械を使っていた。二代目が壊れてから、仮のつもりで手でいれていたのが、いつの間にか定着した。
父が外遊から帰って来てからだろうか。両親は、毎朝、珈琲をいれて飲んでいた。益子焼の大きなマグカップ、本来は麦酒用であったのかもしれない。父用と母用と色合いがはっきり異なっていた。どう違っていたのか、今では思い出せない。そろって陶器好きであったから、多分それぞれ選んだものだろう。
それを湯煎にかけながら、珈琲用のネル袋に入れた粉に、沸騰させたままの薬缶から湯を少し注ぐ。一回注ぐごとに 小さな木の焼き板で、蓋をする。香りが逃げないために。最初の泡が大事。後は、その泡が最後まで消えないように、いれて行く。
実験系の研究者であった父は、生来の不器用を補うべく、万事に丁寧であった。普段は母がいれていたが、たまに父がいれると美味しいと、彼女も認めていた。
子供の頃、珈琲は大人の飲み物であった。初めて珈琲を飲む事を許されたのは、避寒に行った伊豆S市の珈琲館。薄暗く狭い店内に古い時計や椅子卓やらが置いてあり,珈琲の香りが漂っていた(ような気がする)。何処か一時代前を思わせる骨董品屋風の装飾。『邪宗門』という店名が、記憶に残り、後に芥川龍之介の同名の小説を見つけて嬉しかった。彼にしては、異例の長編小説。王朝物語めいた内容も、未完で終わっているのも、神秘的。しかし、あの店名の由来とは、思えなかった。北原白秋の『邪宗門』だろうと思いつつ、読む機会も無いまま過ぎた。先年、ふとした縁で譲られた本の中に、この詩集があった。小さな挿絵入り。併し、詩人の若書きは、 私自身も若い頃に読んでおけばよかったのかもしれない。華麗な修辞に、ひるんでしまった。
京都に移ってからも、母は珈琲を入れ続けた。 自分自身のために。子供のために。訪れてくる『客人』のために。
台北と日本を往復しながら、仕事をするようになった 父は、どうしたろう。向こうでは多分、一緒に暮らした人々同様中国式朝食となったろう。日本で独居の時は?恐らく即席であったろう。父は、一人で生活を楽しめる方ではなかった。
二人とも、もう珈琲を飲む事は、ない。父は逝き、八十歳を超えた母は、介護士さんの煎れてくれた紅茶を飲んでいる。

ゆるやかに 日は暮れつつも 夏の雲


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