『ドン=パスクワーレ』ドニゼッティ

シャンゼリゼ劇場の『ドン=パスクワーレ』は、直前まで行くか行くまいか、迷った。当日、もし嵐か大雪であれば、行かなかったかもしれない。
券はすでに買ってあった。しかし、指揮者と演出家を迎えての会で、まず失望した。例によって時代背景、一切無視。1950年代の行商人の小型トラックが、舞台だそうである。
最近巴里で上演される歌劇の多くは、何故、歴史に忠実でないのだろう。ある時期ある場所で起こった話を、総て現代か架空の次元に持って行こうとしている。『ジュール=セザール』とクレオパトラの恋は、紀元前一世紀のエジプトで実際にあった話。現代のルーブル美術館ではない。『タンホイザー』は、中世独逸の歌合わせが舞台。現代の画家の話ではない。『椿姫』は、高級娼婦が存在した19世紀前半の巴里の話。その『椿姫』に関し「観客は百何キロのヴィオレッタを、もう望まない。現実的な芝居を見たがっている」と、指揮者が言っていたが、体格のいい肺病者の方が、ブランコで歌うルチアよりも、よほど真実味がある。(第一、歌の力で感動させるのが、歌手の力量ではないだろうか。)
しかし、指揮者は楽譜に忠実に、美しい音楽を再現してくれるから、いい。
悲劇的な二重唱を歌う主役二人の後ろの画面に、醜いとしかいいようのない男女を映し出した『トリスタンとイゾルデ』、ジェノヴァのドージュを選び出すと歌いながら背広姿の選挙運動にしてしまい、当代有数のバスとバリトンの共演を損ねた『シモン=ボッカネグラ』、原作やモーツルトの曲の持つ深い心理性を、単なる社会問題にすり替え、おまけにミッキーマウスのお面で矮小化してしまった『ドン=ジョヴァンニ』。例をあげれば枚挙にいとまのない演出家達の独善が、また一つかーーーと。
ついで、テレビ放送があった。予想通り。有名なデザイナー制作の衣装も、百貨店に、何時でも並んでいるありふれた日常着。西欧には豊かで美しい服飾史がある。各時代各国で異なっている。観劇には、それを味わう喜びもあるのに。
但し、演出で一つだけ、気にいった点がある。歌手が充分歌えるように配慮してある事。これは、会談の時も言っていた。「歌を大事にする。」と。ほぼ舞台前面で、客席に向かって歌う。ジャングルジムを渡ったり、眼もくらみそうな階段を登ったりしないですんでいる。(折れそうな踵の靴は、ちょっと心配だったがーーー)
そして、歌手がよかった。アレッサンドロ=コルベリが、「ドン=パスクワーレ」と、自分を哀れむところなど、涙ぐみたくなった。それで、行く事にした。
先日、ピアニストの友人が、舞台を見られない所で、ピアノ演奏を聴いて「耳が厳しくなった」と、言っていた。歌劇も眼を閉じて聴くと音楽に集中できる。アレッサンドロの声は、上品で、深い悲劇性がある。デジレ=ランカトレは、まろやかな表情豊かな声で、難役を精一杯こなしていた。サリディニア出身のテノールフランセスコ=デムロ。私には、少し生硬過ぎたが、盛大な拍手を浴びるに相応しい力量だった。性格俳優的な役所のバリトン ガブリエル=ヴィヴィアも、たっぷり聴かせた。オーケルトラ共々、やはりテレビでは味わえない、生演奏の醍醐味。美しい音楽と演奏、優れた歌手、これで演出さえ、といういつもの感想。
プログラムにも、全歌詞対訳がついていた。
『ルチア』と『愛の妙薬』は、よく聴くが、この作品は初めて。ドニゼッティの甘美な陶酔感は、なかったが、また聞き慣れれば違うかもしれない。

なにとなく春めく空に羽一枚




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『ポンペイ』展 マイヨール美術館

文字通り『ポンペイ最後の日』に、マイヨール美術館に行った。エトルリア、マセドニアに続く古代文明。
先の二つの展覧会でも感じたが、人類は一体進歩したのだろうか?少なくとも美術的な面から見れば、進歩という言葉自体が無意味なのかもしれない。
西暦79年の夏、ヴェスビオス火山の噴火で、一日にして廃墟となった地中海沿岸の町 ポンペイ。それ故にこそ、火山灰に埋もれて帝政羅馬初期の市井の生活が、今に伝わる事となった。
特に今回は、ポンペイの邸宅の再現を主題としており、二千年近く昔の人々の生活が具に再現されていた。驚いた事に、彼らの日常は、単に美しいものに囲まれているだけでなく、現代に劣らぬ程快適であった。広々とした家の中には、水槽を中心とした応接間、柱廊や噴水のある庭園や菜園があり、 水道、下水道、暖房等 、浴室厨房に必要な設備も整っていた。
会場に入ってまず男女の立体像を見る。穏やかな気品に溢れている。紀元後45−76年頃の板絵の優美なナルシソス、同時代の卓の脚となっている老人シレーヌも彼に抱かれる笑う赤ん坊ディオニソスも、皆それぞれいい顔をしている。
トリクリニウムの錆朱色の壁面を飾るのは、上半身は馬、下半身は龍に見える動物、天女、優しく繊細な草花、水鳥の群。
展覧会を通じて、印象に残ったのは、この動植物の意匠。自然との豊かな交わりを示しているのだろう。馬の頭の飾りのついた脚の丸卓、小さなうずくまる鼠のついた燭台等々。庭園の装飾に描かれた鴨や孔雀。噴水を彩る海豚や蛙の彫刻。地中海に今もいる海豚を抱きかかえる幼児。その愛くるしくも気高い顔立ち。太い眉や唇には、彩色の後が残っていた。
信仰に於いても、ギリシア、羅馬、エトルリア、エジプトと様々な神々が、各家庭で祀られている。ちょうど日本の竈神や七福神のように。我々も神棚に手を合わせ、御仏壇のご先祖様にお線香を炊いて暮らして来た。ああ、あまり変わらない、と。ポンペイに生きた人々が身近に感じられる。
その内の一人が背を丸めて踞っている。すぐ側には、四肢を硬直させ喘ぐ犬。
石膏に形とられたのは、実際の断末魔の姿。生と死を如実に示した展覧会であった。
ところで、会場には、かなりの子供達がいた。親達が熱心に説明している。現代史偏重の風潮の中で、頼もしく嬉しい。歴史教育は、出来る限り満遍なく偏見なしにーーーと、思う。一定の思想のもと、一つの時代やある文化のみを偏重するのは、百害あって一利無し。どの国でも、自国の伝統文化を愛するとともに、異なった文明を持つ古い歴史ある他の国々も尊重する子供達が育って欲しい。
最終日なので、いつも買う美術雑誌が売り切れていた。それで、子供用の図録を買った。 図版も丁寧、説明もわかりやすい。案内役助手の小さな鼠の挿絵が、可愛らしかった。

いにしえの海の風吹く町並みを走りをりしかこの細き犬


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ピアノのジョゼフィーヌ

ジョゼフィーヌが、帰って来た。すっかり若返り美しくなって。
1888年、ニューヨーク生まれのスタインウエイ。米国教会の演奏会用グランドピアノ。
老朽化が目立って来たので、昨年、大西洋を渡り、故郷で修復作業を受けていた。
一年間の不在の後、改めて洗礼名を貰い、新年早々戻って来た。
以来 美しい音色を聴かせてくれている。
音楽会には、二回行った。最初は、お披露目特別演奏会。八人の演奏者(クラリネット一人、オルガン一人)は、満場の聴衆から盛大な拍手を受けていた。中でも『帽子の女性演奏家』は、個性にあっているのか、華麗なショパンとリストで、会場を魅了した。また最後のガーシュインには、演奏家の陽気な演奏ぶりのため、現代音楽大嫌いのM氏さえ、楽しそうだった。
二度目は、まだ若い独奏者による定例演奏会。寒い日だったが、真面目な演奏ぶりに好感が持てた。配られた曲目の説明も丁寧で、嬉しい。
両度とも、ジョゼフィーヌは、演奏者の信頼に応え、勇気づけているようだった。
興味深かったのは、どちらにもベートーヴェンとショパンが入っていた事。実は、お披露目の前日、別の劇場の演奏会でも、この二人の作品を聞いた。それぞれ、ベートーヴェンは、『月光』、ソナタ9番作品14の1、『告別』、ショパンは、夜想曲、練習曲、ワルツ、スケルツオから、選ばれていた。ショパンは、いつもリパッティで、聴いている。
ベートーヴェンに関しては、最近、誠実で堅固な演奏を聴きたいと切に思うようになった。 昔風といってもいい。浮薄な所のない、重厚な、思わず襟を正して聴きたくなるようなーーー。使い古され、今では商業化の波に消されてしまった表現かもしれないが、音楽はやはり人間性の表現だと思う。苦悩する高貴な魂の生み出した作品に相応しい演奏を聴きたい。 結局、バックハウスやリヒテル、現代ではバレンボイムを探してしまうのだけれどーーー。
1930年、米国教会にグランドピアノを寄贈したのは、ハッチ=マリア=ストロング夫人。 幼い頃、家計を助ける為にピアノ教師をした日々を忘れなかったからだろうか。それとも、むしろ、音楽がどれほど、慰めを与えてくれるか、身にしみて知っていたからだろうか。
彼女は恵まれた幼少時代から一転、貧困と病苦に喘ぎながら子供を育て、中年過ぎの再婚で幸せをつかんだ。短い結婚生活の後、富豪の未亡人として医療施設等の社会事業に貢献した。 彼女同様、第二の生を歩み始めた『ジョゼフィーヌ』は、これからも活躍することだろう。
ところで、お披露目演奏会の後、隣接する会場に、手作りの巨大なピアノ形ケーキがあった。聴衆も演奏者も一緒に、チョコレートのかかった美味しいお菓子を賞味した。

朝な朝な陽の色朗らに青めきて窓辺の猫も長くなりをり


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水仙

花にも流行や、客の好みの変化があるのだろうか?
最近は、切り花こそ見掛けないが、鉢植えでは、一重の水仙も花屋の店先にならぶようになった。
今日の漉き返しの反故には、二千年一月の日付が入っていた。
『水仙

巴里郊外の友人宅に招待された。硝子張りの温室風の客間に通され、思わすたちどまった。卓上に三株の水仙、花弁は一重で副花冠は八重だ。
子供の頃、数年続けて冬休みを、南伊豆で過ごした。特に、下田には定宿があり、毎朝、父母と通った市内の珈琲館の大正時代風の装飾や、煙草の煙に混じった珈琲の香まで、覚えている。
ある年、爪木崎の水仙の群生を見に行った。黒潮の流れる青い海に突き出た岬、明るい陽射しを浴びて、一面に咲き満ちる幾種類もの花々、風も芳香に染まっていたーーーような気がする。というのは、あまりに晴れやかで、美しい思い出なので、現実だったのが、不思議なくらいだから。当時両親は、すでに不仲になっていた。水仙の花畑は、私にとり子供時代最後の仮の幸福の幻となったわけだ。
反対に下田城でみた唐人お吉の人形展は、よくわからないながら、何か理不尽な暗く哀れなものを感じた。後に、自分が外国人と結ばれ、異国で暮らそうとは夢にもおもわなかった。
仏蘭西では、華やかな黄色の喇叭水仙のほうが、どうも人気があるらしく、水仙、特に花弁も副花冠も一重の私の一番好きな品種は、花屋でも余り見掛けない。
しかし、何年こちらに住んでも、何処か静かで寂しく、それでいて野に咲けば、あれほど朗らかで力強い水仙の花が、大好きだ。
紅茶を運んで来た友人は、何時までも水仙に見惚れている私を、面白そうに眺めている。』

潮騒も水仙の香に夢のうち


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風に揺れて

この冬は、信じられない程暖かな聖誕祭暮れ正月を過ぎ、立春を迎えて寒波となった。植物にとっては、とまどうことの多い辛い環境だったのではないだろうか。
身を縮める北風の日々が去り、春の訪れる気配を、柔らぎ始める陽射しや鳥の声に感じ、暗い土の中や梢の樹皮の下からおずおずと芽吹いて来るーーーというわけにはいかなかったように思う。
それでも、春が待たれる。
この気持ちは、巴里に住み始めた頃も今も変わらない。

もう一度漉き返しです。

『風に揺れて

巴里十五区セーヌ河沿いには、エッフェル塔も低く見える高層建築が並んでいる。全面硝子バリの外装、六角柱、星形などの直線的な構造が、無機質で冷たい印象をあたえている。
その近代的な建物同士を繋ぐ一角に植え込みや花壇がある。今は、灌木も冬枯れ、花一輪無い淋しさに、ただ通りすぎるだけだったが、先日、雀が五、六羽集まってさえずっていたので、つと近寄ってみた。パン屑を啄む小鳥達は、一度とびたってもすぐ戻って来て、忙しそう。と、思いのほか、かぐろく掘り返された地面に、まっすぐ、剣の潔さで伸びている芽———チューリップ。三センチ、二センチ、昨日やっと芽をだしたかにみえるものもある。
空は重たく、風は冷たい午後。背中を丸めて歩いていた私も、ふっと顔をあげたくなった。
それにしても、チューリップには、何故あの時期、幼児期を卒業し、思春期にはいる前の、年齢でいえば、八つ九つから十二歳ほどまでの特定の日々が、離れがたく結びついているのだろうか?小学校の花壇のためーーー否、より印象深いのは、我が家の庭に母が作っていた色とりどりのあの花。
重い朱色のランドセルを背負い、脇目もふらずに帰宅する子供だった。学校に行っている間は、何か自分が場違いなところにいるような気がして針鼠のよう。(後年、仏蘭西の田舎の道端に、車の犠牲となって倒れている針鼠を見て、その余りの小ささ、可憐さに驚いた。幼い私は、もっと閉鎖的だっただろうに)。かといって、親に甘える子でもなかった。家庭訪問の担当教師に、「家に居る時も、何を考えているのかわからない子です」と、母は真顔で答えたそうだ。
今、あの頃を振り返ってみると、実は、奇妙に楽しかった。猫と一緒に庭にでて、やっと一人になれた喜びを味わいつつ、図書室から借りて来た本を読み、空行く雲を眺め、風の声を聞いた。
チューリップの咲く四月は、多分私にとって一番辛い時期だったのだろう。組み替え、席かえ、新しい先生と、すべてが苦痛の元だった。日だまりに長い茎をゆらゆらさせて咲き誇るチューリップを前にすると、ほっと安心したらしい。そのためか、チューリップは、見下ろす花ではなく、いつもしゃがんで眼の先でみる花だった。
遠い記憶が今でも、残っているのか。もともとは、仄かに香る花弁の薄い花が好ましく、好きな花とはいえないのに、単純な形のあの花をみる度に、何か甘やかなものが、蘇ってくる。
A町の田舎の家にチューリップを沢山、沢山植えた。複雑な加工種ではなく、赤、白、黄色。そして、かつて母が、「黒いチューリップが、本当にあるのね」と、楽しそうに育てていた濃い紫。今頃は、霜で真っ白な花壇にも、こうして小さな芽が生えているのかもしれない。』

霜柱踏まずになりて幾とせぞ


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