風に揺れて

この冬は、信じられない程暖かな聖誕祭暮れ正月を過ぎ、立春を迎えて寒波となった。植物にとっては、とまどうことの多い辛い環境だったのではないだろうか。
身を縮める北風の日々が去り、春の訪れる気配を、柔らぎ始める陽射しや鳥の声に感じ、暗い土の中や梢の樹皮の下からおずおずと芽吹いて来るーーーというわけにはいかなかったように思う。
それでも、春が待たれる。
この気持ちは、巴里に住み始めた頃も今も変わらない。

もう一度漉き返しです。

『風に揺れて

巴里十五区セーヌ河沿いには、エッフェル塔も低く見える高層建築が並んでいる。全面硝子バリの外装、六角柱、星形などの直線的な構造が、無機質で冷たい印象をあたえている。
その近代的な建物同士を繋ぐ一角に植え込みや花壇がある。今は、灌木も冬枯れ、花一輪無い淋しさに、ただ通りすぎるだけだったが、先日、雀が五、六羽集まってさえずっていたので、つと近寄ってみた。パン屑を啄む小鳥達は、一度とびたってもすぐ戻って来て、忙しそう。と、思いのほか、かぐろく掘り返された地面に、まっすぐ、剣の潔さで伸びている芽———チューリップ。三センチ、二センチ、昨日やっと芽をだしたかにみえるものもある。
空は重たく、風は冷たい午後。背中を丸めて歩いていた私も、ふっと顔をあげたくなった。
それにしても、チューリップには、何故あの時期、幼児期を卒業し、思春期にはいる前の、年齢でいえば、八つ九つから十二歳ほどまでの特定の日々が、離れがたく結びついているのだろうか?小学校の花壇のためーーー否、より印象深いのは、我が家の庭に母が作っていた色とりどりのあの花。
重い朱色のランドセルを背負い、脇目もふらずに帰宅する子供だった。学校に行っている間は、何か自分が場違いなところにいるような気がして針鼠のよう。(後年、仏蘭西の田舎の道端に、車の犠牲となって倒れている針鼠を見て、その余りの小ささ、可憐さに驚いた。幼い私は、もっと閉鎖的だっただろうに)。かといって、親に甘える子でもなかった。家庭訪問の担当教師に、「家に居る時も、何を考えているのかわからない子です」と、母は真顔で答えたそうだ。
今、あの頃を振り返ってみると、実は、奇妙に楽しかった。猫と一緒に庭にでて、やっと一人になれた喜びを味わいつつ、図書室から借りて来た本を読み、空行く雲を眺め、風の声を聞いた。
チューリップの咲く四月は、多分私にとって一番辛い時期だったのだろう。組み替え、席かえ、新しい先生と、すべてが苦痛の元だった。日だまりに長い茎をゆらゆらさせて咲き誇るチューリップを前にすると、ほっと安心したらしい。そのためか、チューリップは、見下ろす花ではなく、いつもしゃがんで眼の先でみる花だった。
遠い記憶が今でも、残っているのか。もともとは、仄かに香る花弁の薄い花が好ましく、好きな花とはいえないのに、単純な形のあの花をみる度に、何か甘やかなものが、蘇ってくる。
A町の田舎の家にチューリップを沢山、沢山植えた。複雑な加工種ではなく、赤、白、黄色。そして、かつて母が、「黒いチューリップが、本当にあるのね」と、楽しそうに育てていた濃い紫。今頃は、霜で真っ白な花壇にも、こうして小さな芽が生えているのかもしれない。』

霜柱踏まずになりて幾とせぞ


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