薔薇一輪

ブーローニュの森は、すっかり紅葉黄葉となった。晴れた日には、明るい陽光に煌めき、青空に照り映え、華やかなくらいだが、夜来の雨に散り敷いているのを見ると、苦手な冬の訪れが感じられ、心細くなってしまう。
「木の葉の落つるもーーー下よりきざしはつるに堪えずして落つる也」。とはいえーーーと、ミュエット門近く、交差点の中間地帯や、森の入り口へ続く芝生に囲まれた花壇で、春の初めからついこの間まで豊富に花をさかせていた薔薇の手入れをしている。青い服の大柄な園丁の小父さんが、園芸用の小刀で枝を刈り込んでいる。こうして殆ど株だけにしてしまう。
寒い間、じっと力を蓄えるように。
小気味のよい音が、朝の空気を震わせる。それにしても、色褪せたとはいえ、随分花も蕾もついている。あっ、その枝もーーー。
「それ、捨てるのでしょうか?」
「いや。頼まれてね。人にあげるんだ。一つ、欲しいかい。」
すぐ目の前の、つんと突き出た堅い蕾の付いた細枝を切り、下の方の棘を削って、
「ほら。この辺りの薔薇は、皆、わしが世話をしているんだ。」
すっとさし示した大通りから広場、そして森への道沿いの、今は静かな花壇に、一瞬、赤、朱、黄、白、とりどりの花の幻が、さわだち顕われた。
一週間ほどして、森は益々枯れ色を深め、樹々の枝はさらに寂しくなった頃、硝子の花瓶に挿した薔薇が開いた。淡く、少しくすんだ紅。そろそろ暖房も入れたい部屋の其処だけに、夏の名残の、そして、来るべき春の約束が、ひっそりと息づいている。

薔薇一輪 その香りほどの 安らかさ


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遠い山の中

ピレネー山脈の北側につらなるコルビエールの穏やかな山並みの一つに、人口百名ほどの小さな村がある。山とはいえ、山頂まで、羊が放牧され、丈の低い葡萄畑が広がる明るい陽射しに満ちた土地柄だ。
その村外れ、樹々の茂った急斜面に、真っ白い馬と黒い顔に茶色の毛の羊がすんでいる。そう、本当に二匹だけで、いつも一緒に。
街道を離れ、小径を少し入ったところに柵がしてある。その外にたって大声で呼ぶと、枝をゆるがして白馬が駆け下りてくる。その後ろから小さな羊も大急ぎ。
持って行った林檎を馬が食べる間、その陰に隠れるようにしてこちらを覗いている。村の住民の一人のものだそうだ。
巴里の街中、ふと気の滅入ったおりなど、この二匹の事を思い出すと,何故かほっとする。

はぜ紅葉 目印にして 遠出かな


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聖セルナンの白い犬

ツールーズの思い出です。
これを書いてから、十年以上経っています。

『もう三度目の道なので、地図を見ずとも、あの角を曲がれば聖セルナン大寺院と判っている.十一月も末というのに、早足をすれば汗ばむ程。しかし、五時十五分の超特急を予約してあるので、遅れるわけにはいかない。日曜の午後。この街特有の赤煉瓦のならぶ石畳の細い道を、息を切らすようにして通り抜ける。
ツールーズへは、仕事で来た。二泊三日とはいえ、ほとんど自由時間のない旅.夜行で着いた一昨日朝、早速市内観光をと、思った。丁度団体旅行の人達がいたので、便乗した。しかし、これは失敗。丸顔の可愛らしい日本人案内嬢は、宗教美術には余り関心がないらしく、聖セルナン大寺院は内陣を一巡して、横の喫茶店で一休み。おりからの霧雨に黒ずんだ後陣を、木立越しに眺めていた。
二日目、思いがけずできた一時間半の暇に,今度は近いと判っていたので,歩いて行った。街の其処此処で公孫樹が金色に染まり、銀杏の香りさえしている。五角柱の塔が,晴れ間の見え出した空に聳えている。ベルナード=ギルダン工房作とされる「荘厳の救い主」を、やっと見る事ができる。売店で地下礼拝堂の券を頼むと、「二時半から。」とても、無理。絵葉書を数枚買い、外側の扉や石棺等を、案内書を片手に観て回り,痛む脚で宿舎に戻った。
そのあげくの今日。仕事の後、大急ぎで荷物を纏め、住民も驚く程青く抜けた空の下、教会側面まで辿りついた。と、昨日,心行くまで眺めたミエジェビル扉の楽園追放の柱の下に、白い小犬。赤ら顔の大男が、首に付けた青い布紐の端を握り、大きな防水布の鞄の上に坐っている。
浮浪者と犬———絶望的な仏国社会状態の象徴———巴里でもよく見る。この街でも、昨日何組か見かけた。大抵は、シェパード等の大型犬だが、これはパピヨンの雑種らしく、三角の耳はぴんとたち、尾はふさふさとーーー。しかし、痩せている。今来た道を引き返し、唯一店を開いていたパン屋で,乳酪と卵のたっぷり入った渦巻きパンを買った。駆け足で戻ると、友人なのか,別の浮浪者が来て話している。犬は、その足元で、顔を見上げ元気よく尾を振っている。彼が立ち去ってから、側に近寄ってみたが、鈍重そうな、そしてどこか威圧的な中年男は身動きもしない。
きょとんとした顔の小犬の片方の目の端が、少し膿んでいる。
「可愛いわね」
そういいながらしゃがみ、パンをちぎって小犬に差し出した。犬は、逆三角形の頭を怪訝そうに傾げ、やがて少しずつ食べ始めた。大きな塊は飲み込めないらしく、ごく小さくして口元に差し出すと、本の僅かずつ噛み締めている。そっと背中を撫でた。柔らかい毛だ。
「あなたの。」
「そうだ。」
それまで、ぼんやりしていた男が,勢い込んで言った。
「いくつ」
「一歳」
これも、はっきりと。小犬は、干葡萄を避けて,少しずつ、しかし休む間なく食べ続けた。半分程で、もう要らないのか。主人の膝元に戻ると、その顔を見上げてちぎれんばかりに尾を振った。ふさふさとした真っ白な尾の先が、秋の陽に煌めいている。

天使や使徒に囲まれ正面を向いた救い主の浮き彫りは、謹厳そのもの。ただ、その峻烈なまでの様子の背後に、何か柔らかなものを隠している気がする。ツロのギリシア女の話を思い出した。この挿話に小犬が直接関係する訳ではないが、聖書中ほとんど唯一馴染み深い動物の名が出て来る場面が,印象的だ。
この時、まず断ったイエスの顔は、どうもこの浮き彫りに似ていたのでは、ないだろうか。
基督教では、動物は天国へ行けないらしい。幼い頃、道端で死んでいた猫を埋葬したいと神父に頼んでそのように言われ、多いに泣いた。ところが、九世紀アイルランド生まれのエリジェーナは、森羅万象悉くの内に神は至現され、結局その神のもとで一つになると言ったという。見えるものも、見えざるものも、動植物人間すべてが。死後異端視されたこの思想は、まさに衆生一切のうちに仏性を見る仏教にも通じているようで、親しみ易い。お互い深く愛し合えさえすれば、その対象はなんであっても、畢竟同じなのではないだろうか。
外に出ると、あの一組はもういず、黒い立派なボクサー犬を連れた金髪の少女が、辺り一面濡れた中に立っていた。
「雨」
と聞くと、
「清掃車が、通ったの」
こんな柵の内側まで、水を撒いたのだろうか。あの小さな犬は、水をかけられたりしなかっただろうか。
駅へ急ぐ道すがら、振り返ると聖セルナンの鐘楼が空の果てを指して立っていた。この鐘楼の見える街のどこかの通りを、片目を病んだ白い小犬は、大股で歩く男の後ろから、尾をぴんとたてて、小さな脚で一生懸命歩いているーーー。
もう三年も前の事である。

公孫樹舞ひ風に向かひて遠ざかる同行二人に響く鐘の音』


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栗の実

今日も漉返しです。すみません。二編、おそらく二年続きで書いた反故と思います。
十年程前から、秋には、田舎の家には行っていません。
今頃のソーローニュもペイ=フォールの森も、不可思議な魅力があるのですが。

『栗の実 その一

白、黄、赤紫、大小さまざまな菊の花が、花屋の店頭を飾るパリを後に、フランス中部ソーローニュ地方の田舎の家に戻ってきた。 諸聖人の祝日を中心とした一週間ほどの休みを過ごすためだ。
生憎、雨もよいの重たい空だが、寒くはない。早速栗拾いに出かけた。春に訪れる森は、わずか一週間、十日の違いでも、年ごとに全く異なった様相を見せる。芽ぐみ始めた木々の緑も、足元の草花の色合いも、毎年毎年新たな発見があるほど変化が激しい。それに対し、今頃の森はゆっくりとほとんど気付かぬほどの緩やかさで変わっていくらしい。陽が当たれば金褐色に見える枯葉もこの天気では渋い茶色に沈み、ところどころ蔦紅葉が鮮やかな朱を呈しているだけだ。
森を抜けた街道沿いに昨年見つけておいた三本の大きな栗の木がある。背後には、夏の間あれほど欝然と繁っていたとうもろかし畑が、一面に刈り取られ、わずかに残った茎が湿り切った地面に朽ちかけている。その畝のそこここに栗のいがが、落ちている。既に村の子供たちが来た後なのか、最初は、空ばかりだったが、そのうち慣れてくるとあっ、ここに一つ、あそこにもう一つと。口を開けたいがの中にはつやつやと一番大きな丸い実が、他の痩せた二つに寄り添われている。辺りには人っこ一人いない。風さえも息を潜めたようなしじまの一瞬。それでいて野兎や鹿、猪までもいるというはるか森の奥では、枯葉があるいは静かにあるいはせわしなく散っているのだろう。時には手を休め空を行く渡り鳥の群れを目で追ったりしながら、いつしか四キログラムほどになっていた。
帰宅後、”ラルース家事大百科事典”を書棚から取り出す。この革の表紙の付いた分厚い事典は、1926年出版。冷凍庫も電子レンジもなく、下着まで木綿で手作りすることもあった時代のフランスの主婦の智恵袋だ。栗の項をひらき、そこに出ている付け合わせ用の裏漉しや砂糖漬けを作る準備をするかたわら、古いフライパンで焼栗を作る。台所の棚には、これも百年以上は経っている素焼きの焼栗専用の器がある。しかし、残念ながら、暖炉の火に直接かけて使うものとのこと。なるほど、やや尻張型の底は、煤で黒くなっている。いつか煙突を掃除して、居間の暖炉に薪を燃やしてーーーと、楽しみにしているのだが。
庭の大きな菩提樹の木の梢が、風にざわめいている。猫は、椅子の上で丸くなって寝息をたてている。太古から女達は、こうして手を渋で黒くしながら栗の皮剥きに苦労したのだろうか。居間には、この地方の古い風俗の銅版画が掛かっているが、あの中の女達も栗を拾い、台所の隅などでその皮を剥いたことだろう。黒っぽい衣服に身を包み白い木綿の頭巾を被った彼女達わ何を夢見、何に悩んでいたのだろうか。こんなことを考えているうちに栗の焼けるいい匂いがしてきた。』
『その二

パリから南へ車で二時間余り。田舎の家のある村は、針葉樹の多い乾いた砂地の林ソーローニュと、落葉樹の繁った森の境に位置している。そのためか、少し村を離れると、ここかしこに栗の木が自生している。
去年は、三、四キログラムも拾ったろうか。今年も、諸聖人の祝日前後の休みを利用して一週間ほどの予定で田舎に滞在した。御ミサと色とりどりの菊の花で飾られたお墓参りをした後、栗拾いに出かけた。
夏の間赤紫の絨緞を敷いたようだったヒースもすっかり色褪せ、羊歯は濃褐色に立ち枯れたまま地を覆っている。葉を落とし尽くした木々もあれば、まばらに染まった木々や全体色付いた木々もあり、少しでも陽が差すと、紅葉とはまた違った趣。丁度年老いた能役者の橋懸かりを思わせ、まさしく「黄纐纈林寒有葉」となるのだが、あいにく今日は、曇り空。
今回も、いつも行く所はもう他の人が拾ってしまった後なのか、ほとんど虫喰や痩せた実ばかり。それでもと、更に少し進んだ街道筋に思いがけなく栗の大木が、枝を広げていた。裏のとうもろこし畑の跡にまでいがが、飛び散っている。折れた枝で夥しく積もった落ち葉を払いながら探すと、二つ、三つ。つやつやひかった丸い実が、次々に出てきた。特に、触れると栗のいがより痛い蕁麻の茂みの蔭には、余り固まってあるので、ふと、小人でもこうして隠しておいたのではないか、と思いたくなったほど。小さな歯の跡の付いているのは、野兎か、野鼠か。突然、後ろの薮の中から、大きなはばたきががして、雄の雉子が飛び立った。狩人に見つからなければいいが。
環境のせいもあるだろうが、日本にいた時よりもずっと自然に触れる機会が増えた。しかし、もちろん私などは、森の闖入者で、この深い森の中で日々生と死のさまざまな営みが行われているのだろう。何か荘厳なものに囲まれている思いが、いつも、こうして森に一人いるとしてくる。日が暮れ細かい雨が降ってきた。これから本当の生を始める森を後に、家路についた。』



栗の実拾いに
行きましょう

何処へ

森の向こうの
木の下へ

おやおや
一つもないですね
栗鼠さん
先にきたのかな
大きな
猪さんかしら

いえ、いえ
仲良し小人達
そっと隠して行きました。
落葉の陰の
栗の実は
やはり取らずに
帰りましょう。


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小さな骨董街

部屋を片付けながら、ふと手にとる小さな置物達。自分では、物を増やさないように努めているが、昔、父母が買ってくれたものや、友人達からの贈り物は、その心が懐かしく嬉しく、大切にしている。埃を払ったり、磨いたりしていると、時間が優しく過ぎていく。黒白猫亜子ちゃんの霊前に戴いたプリザーヴドフラワー(保存花)も、白いリボンをそうっと結び直す。
幸い灰色猫真心子ちゃんは、丸くなって眠っている。起きて来ると大変だろう。遊び好きだから。

亜子ちゃんが、元気だった十年以上前の反故の漉返しです。この骨董街も、まだ、あるのかどうかーーー。

『冷たい雨と風とで例年より早く訪れた秋が、少し落ち着きを取り戻したような、久し振りの青空。買物の途中、ちょっと寄り道をして、いつも何となく気になっていたオートウユの骨董街を覗いてみた。
パリの所々には、ちょうど京都の新門前や寺町のように、それぞれ特色をもった古道具屋の集まっている一帯がある。高級品志向のセーヌ右岸の一角、品揃えの豊富な”スイス村”、一味捻った”聖ポール街”、有名なクリニャンクールの蚤の市に隣接する”ビロン通り”など。
オートウユは、その中でも、本当に小さく気楽な雰囲気だ。並木に面した鉄の門柱には、大きな黒い犬が繋がれていて、馴染み客らしい二人の中年女性に甘えかかっている。中には、七、八軒、狭い路地にまで商品を並べている。机、椅子、本棚、櫃、振り子の柱時計や置時計、銀器、燭台等。ガラスの商品棚には、帽子止めの飾りピン、首飾り、数珠、磁器の人形や宝石箱。がらくた紛いのものも多い。ビブロー(小さな置物、骨董)というフランス語がよく似合う。この言葉を覚えたのは、”スワンの恋”の中、オデットの部屋を描写している場面だ。芸術的鑑賞眼を持ったスワンとの対照が印象的だったからだ。実際、フランスに住んでみて、彼等のビブロー好きには、驚かされた。部屋中、所狭しと飾っている。
子供の頃、出張の多かった父は、行く先々で郷土玩具や民芸品の類を買ってきた。張子の虎、白樺細工の鷹、大小さまざまなこけし等。何処の何と、説明を加えつつガラス戸の付いた棚に飾っていた。幼い私は、最初のうち、おもしろがって眺めていたが、ある日、母の顔を見て驚いた。いかにも興味なさ気な、冷たい表情をしていた。後年、父と別れてから、”埃になるから、ああいうものを飾るの、大嫌い。”と、言った。
この春、日本に帰国した折、父と天神様の市に行った。小さな赤いぽっくりの置物を前に、八十翁の父は、”かわいいなあ。”と、目を細めた。こうした父とどこかさっぱりとした母と。うまくいかなかったのは、仕方ないにしても、双方さぞ傷つきあったことだろう。
突然ピアノが、鳴り出した。古いジャズの一節を、主らしい初老の男が弾いている。プレイエルのグランドピアノ。これも売り物とか。傍らの安楽椅子には、だいぶん年老いたぬく犬が、気持ちよさそうに眠っていた。別に掘り出し物を探すというのでもない。買っても、結局あまり大事にしていないような気がするので、小物を集めるのは、近頃やめてしまった。ただ、何となく古い物を見て歩くのが、好きだ。隊列を組んだ錫の兵隊に、アンデルセンの童話を思い出したり、小さな陶器の紅茶器一揃に、遠い日のままごと遊びを懐かしんだり。時の流れが、すぐ近くのセーヌ河のように、ゆったりとたゆたっていくーーー。
小一時間後、通りに出ると、もう陽は、陰り始めていた。』

我が宿の桜紅葉もちりぬらむセーヌ河畔に風渡る朝


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Author:桐の葉も
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